“町工場は下請け、 なんてだれが決めた?”
浜野製作所 | 代表取締役 CEO 浜野慶一さん

YAYOI USER'S CHALLENGE STORY

私たちがいつも見つめているのは、技術を生み出し、
まだないものを生み出そうとしてチャレンジし続ける人たち。
ここでは、そんな人たちのSTORYをご紹介します。

下請け体質からの脱却を目指す金属加工会社

浜野製作所さんはどのようなことをしている会社でしょうか?

基本的には金属加工を行う会社です。取引先は設立当初から合わせて4200社ほどあり、半導体や医療業界、航空宇宙関係など業種は多岐に渡ります。それぞれの会社で扱う装置の部品を加工するほか、一部では設計まで携わっています。

なるほど、金属加工会社でありながら、ものづくりの設計まで携わるのはどうしてでしょうか?

日本の小規模ものづくり企業のほとんどは加工業です。しかし、加工業というのは他業種から末端の仕事と思われ、機械やソフトの性能が良くなった現在では、もらえる賃金が下がり続けています。このままでは人件費の安い国に太刀打ちできないと思い、下請け体質からの脱却を目指し“ものづくりの上流に立って仕事をしよう”と決めました。

会社はお父様が創業されたんですよね。浜野さんが会社を継いだ経緯を教えていただけますか?

そもそも継ぐつもりはなかったんです。というのも、両親が毎晩、会社のことで言い争いをしているのを見て育ち、“尊敬できる仕事”じゃなかったんですよ。でも、就職活動していた大学四年のとき、初めて親父から飲みに誘われ「ものづくりに誇りを持って働いている」と話してくれました。“仕方なくこの仕事をやっているんじゃないんだ”と衝撃を受けて、内定も決まっていましたが、親父の気持ちに押されて継ぐことを決意しました。板橋の町工場で修行をして8年目くらいに親父が亡くなり、浜野家の長男ということで会社を継ぎました。

会社を継いで早々、八方ふさがりのピンチに…

会社を継いだあと、印象に残っている辛かったことはありますか?

親父が亡くなった後も、お袋は工場で働いてくれてとても頼りにしていたんです。そのお袋もボクが継いだ2年後に亡くなりました。それから4年後に両親が譲ってくれた町工場が隣の解体工事現場からのもらい火で全焼。再建のためのお金は出ていくばかりで、借金の督促状も届いて、“いつ潰れてもおかしくない”状況に陥ります。
さらに、火事の賠償金として6千万円出るはずが賠償交渉先の住宅メーカーが倒産しちゃって……まさに、八方ふさがりになってしまいました。

“蹴とばし”の機械で夢を繋ぐ

そんな八方ふさがりのピンチをどう乗り切ったのでしょうか?

それは地域のサポートと、社員の支えに尽きます。火事の当日、貸工場を借りなきゃと思い、不動産屋さんに駆け込みました。不動産屋さんが色々と手をつくしてくれたものの、すぐに借りられる工場が見つからず困っていた所に、大家さんが声をかけてくれたんです。大家さんは憔悴しきっていたボクに「ちゃんと食べなきゃ」といって、塩むすび2つと「朝の残りで悪いんだけれど」と、大根のお味噌汁に卵をおとして持ってきてくれました。その時のお味噌汁の味は今でも忘れません。さらに、“金岡”という従業員がたったひとり辞めずに付いてきてくれました。

その金岡さんが付いてきてくれた理由は何だと思いますか?

分かりません(笑)。火事で工場を失い、新しく機械を入れないと営業を再開できないという状況で、金岡と中古機械を買いに行きました。40年落ちのプレス機械を買おうとしたのですが、30万円という金額が出せず買えなかったんです。そうした時に“蹴とばし”という、電動ではなく足で踏んで操作する機械を一台1万円で二台見つけ、自分と金岡の分を買いました。
その後、二人でなんとか仕事を続けたのですが、給料すら払えない状況にあり、「この先潰れるかもしれない。腕の良い職人だから、やめてもいいんだよ」と告げました。すると彼は「社長、オレは金のためにここに来ているんじゃない、アンタと仕事がしたいからここにいるんだ。まだ浜野製作所は潰れてない」と答えたんです。今も心に刺さっている言葉です。
ちなみに、“蹴とばし”は現在も使っていますよ。一番大変な時を支えてくれたので、いくら時代遅れの機械と言われようとも裏切ることはできません。ボクらはこの二台で夢を繋いできたんです。
そうした工場の全焼の経験から、“「おもてなしの心」を常に持ってお客様・スタッフ・地域に感謝・還元し、夢(自己実現)と誇りを持った活力ある企業を目指そう!”という、現在の浜野製作所の経営理念に繋がっていきました。

町工場への強い想い

会社として立ち直っていく中で、通常の受注ではない「産学官連携プロジェクト」にも携わるようになった理由は?

都や区の助成制度のおかげで、当面一年の資金を借りられたんです。そして、その資金を返済するために仕事の幅を広げる必要がありました。営業開拓をする中で、電気自動車「HOKUSAI」や深海探査機「江戸っ子1号プロジェクト」、2020年東京五輪で純日本製のカヌーを使って金メダルを目指すプロジェクトなど、産学官連携の新しいプロジェクトに携わってきたんです。
「HOKUSAI」の例でいうと、元々は行政主導で墨田区と早稲田大学が提携して電気自動車を作ることになり、自動車の基盤技術を持つ企業が集められました。ボクはこのプロジェクトを通して、自分自身の勉強の場にしようという思いがありました。“社長の器が広がらない限り浜野製作所は成長しない”と考えて、参加したんです。自社ブランドの製品を出そうとしたり、下請け仕事から車メーカーになろうとしたわけではありません。
また、従業員にとっても、自ら現場に出て色々な業界の方と一緒に手足を動かし汗水たらせば、その教育訓練は一生忘れられない体験になるだろうと思い、チャレンジを決めました。

それでは、現在、携わっている新しいプロジェクトのことを教えていただけますか?

毎年「スミファ」という墨田区の町工場見学ツアーを行っています。これは町工場が減り、良い技術を持ちながらも情報発信ができない職人さんの想いや技術を発信することを目的にしています。
かつて高度経済成長の最盛期、墨田区にはおよそ9700~9800の町工場がありましたが、現在では三分の一以下になっています。町工場で行われる仕事は、ものづくりの基盤となる技術です。その基盤技術が無くなると、ものづくりの力が絶対的に落ちてきます。良い技術を持ちながらも、その素晴らしさに気付いてない社長さんや職人さんが沢山いて、それをボクらがコネクションして広げていけば、町工場経営も成り立って後継者の確保に繋がると思いました。
そこで、一つ布石を打ってみようと始めたのが「Garage Sumida」というものづくり総合支援施設です。ものづくりベンチャー企業を始めとした「アイデアはあるが技術がない」方々のお困りごとを解決しています。そんなお手伝いをしているうちに、結果としてスタートアップ支援の形になっていますね。

浜野さんの話を伺っていると、町工場への強い想いが感じられます。
そんな浜野さんが思う、世界に誇れる日本の町工場のスゴさを教えていただけますか?

心のこもったものづくりをしていることが世界一だと思います。日本の職人さんは図面に描いてなくても「こんなにとがっていたら、誰かがケガをするだろう」とやすりで“ひとなめ”するんです。たった“ひとなめ”ですが、ものすごく大きな差があると思います。

最後になりますが、挑戦するために最も大事なものとは何だと思いますか?

相手の立場になって考える想いと、その想いを実現させるための行動力だと思います。

株式会社 浜野製作所

「おもてなしの心」を経営理念とし、設計・開発から多品種少量の精密板金加工、金型設計・製作、量産プレス加工、装置・機器の組立まで、幅広い業界業種の課題をサポート・解決している。また、電気自動車「HOKUSAI」、深海探査艇「江戸っ子1号」をはじめとする産学官連携事業やものづくり支援工房「Garage Sumida」を通じた多数のベンチャー企業、大学・研究機関の開発支援を推進している。そのユニークな経営スタイルは「新たな先端都市型のものづくり」として、国内外から大きな注目を集めている。

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